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  1. Dec 2017
    1. 石川セリ

      1969年にコーラスグループ「シングアウト」に参加。脱退後の1971年に「小さな日曜日」でデビュー。B面に収録されていた同名の映画主題歌「八月の濡れた砂」が深夜ラジオで注目されてヒット。1977年のシングル「ダンスはうまく踊れない」を提供した井上陽水と78年に結婚し、活動休止に入る。<br> 1981年に活動を再開させ、矢野誠、かしぶち哲郎、大村憲司、坂本龍一、松任谷由実、大貫妙子、矢野顕子、あがた森魚、パンタ、友部正人など豪華な作家陣を迎えてアルバムを制作する。<br> 1985年に再び活動を休止するが、95年、武満徹作品を歌ったアルバム『翼』で復帰。以降はコンスタントに活動を続けている。

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    2. 石原裕次郎

      慶応義塾大学在学中の1956年、兄・慎太郎の小説を映画化した日活映画『太陽の季節』に出演する。そこで存在感を示したことで大学を中退、俳優として日活に入社する。続く『狂った果実』で初主演、57年から58年にかけて『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』『錆びたナイフ』など主演映画が立て続けにヒット、一躍銀幕を代表する大スターとなる。<br> また、自ら歌った『嵐を呼ぶ男』『錆びたナイフ』の主題歌も大ヒットとなり、歌手としても人気を博す。<br> 1962年に石原プロモーションを設立して独立、1969年に日活との契約が切れて以降は活躍の場をテレビドラマに移して『太陽にほえろ!』『大都会』『西部警察』がヒット、いずれもシリーズ化された。<br> しかし、1978年には舌がん、1981年には解離性大動脈瘤、そして1984年には肝臓癌と次々に難病が発覚、再起を目指して闘病を続けたが1987年4月、52歳の若さでこの世を去った。

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    3. ザ・キングトーンズ

      1960年に結成されたコーラスグループ。米軍キャンプを中心に活動していたが、1968年にポリドールと契約してデビュー。デビュー曲の「グッド・ナイト・ベイビー」が大ヒットとなる。「ジャワカレー」(ハウス食品)「新Vロート」(ロート製薬)など、CMソングやサウンドロゴも多数手がけている。<br> 何度かのメンバーチェンジを経て、現在も活動中。2005年からは3年連続でフジロックフェスティバルに出演した。

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    4. さくらと一郎

      徳川一郎と河野さくらの二人組の歌手。1974年から75年にかけて「昭和枯れすゝき」をヒットさせた。1978年に河野さくらが脱退し、2代目として山岡さくらが加入し、活動を続けている。

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    5. 渡哲也

      青山学院大学の空手部主将を務めていたが、空手部の仲間たちによって日活のオーディションが勝手に応募してしまったことがきっかけで、俳優の道へ進む。<br> 『東京流れ者』や『無頼』シリーズに主演してそれぞれ主題歌もヒットさせるが、放漫経営を続けた日活から離れざるを得なくなり、入社以来敬慕していた石原裕次郎率いる石原プロモーションへと入社する。石原プロでは制作の『西部警察』や『大都会』などのテレビドラマをヒットさせた。<br> 1987年に石原裕次郎が亡くなると2代目社長に就任し、2011年まで務めた。

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    6. ザ・フォーク・クルセダーズ

      1965年、当時大学生だった加藤和彦ときたやまおさむらによって結成。関西のアンダーグラウンドシーンで活躍したのちに、就職のため解散。しかし、その記念として制作した自主製作アルバム『ハレンチ』がラジオで話題となり、加藤、きたやまの二人にはしだのりひこを新たにメンバーに加え、一年間限定で活動を再開させる。そこで東芝レコードと契約を交わして1967年12月に発売されたシングル「帰って来たヨッパライ」が爆発的なセールスを記録した。その後、セカンド・シングル「イムジン河」が発売中止となるという事態が起きる。そこで急遽「悲しくてやりきれない」という曲を制作して発売したが、この曲は現在まで数多くのアーティストにカヴァーされている。1968年10月に大阪で開催されたさよならコンサートを最後に活動を終了させた。

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    7. ロス・インディオス

      1962年に中南米のラテン音楽専門のグループとして結成。1968年にポリドールと専属契約、「コモエスタ赤坂」や「知りすぎたのね」をヒットさせる。1979年に女性ボーカルとしてシルヴィアが加入。ロス・インディオス&シルヴィアとして発表した「別れても好きな人」が翌80年にかけて大ヒットし、ミリオンセラーを記録した。

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    8. 浜口庫之助

      1942年、青山学院大学を卒業後にインドネシアへ渡って就職、終戦時に捕虜となる。1946年5月に引揚者として帰国し、友人たちとハワイアンバンドを組んで進駐軍めぐりを行う。1953から55年まで3年連続で「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としてNHK紅白歌合戦にも出場した。<br> 1957年、バンドを解散して作詩・作曲家としての活動を開始。1958年からコロムビア専属作曲家となり、「黄色いさくらんぼ」(スリー・キャッツ)、「僕は泣いちっち」(守屋浩)などを大ヒットさせる。<br> その後フリーに転向し、「星のフラメンコ」(西郷輝彦)、「バラが咲いた」(マイク真木)、「空に太陽がある限り」(にしきのあきら)、「愛のさざなみ」(島倉千代子)、「人生いろいろ」(島倉千代子)、など、これまでの流行歌の枠にとらわれないヒット曲を続々と発表した。<br> 1990年12月、73歳で死去。

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    9. 佐川満男

      高校時代に内田裕也と知り合い、ブルー・キャップスというバンドを組んでいた。<br> 1960年、ビクターから歌手デビュー。「無情の夢」「ゴンドラの唄」といった戦前のヒット曲をカヴァーしてヒットさせてスターとなる。その後一時低迷するが盟友である中村泰士から提供された「今は幸せかい」が大ヒットしてスターダムにカムバックした。<br> 1971年に歌手の伊東ゆかりと結婚、76年に離婚したが、現在でもたびたび共演している。1980年代からは俳優としても活躍している。

    10. 中村泰士

      はじめは「美川鯛二」の芸名でロカビリー歌手としてデビューしたがなかなか売れず、レコード会社から歌う曲も提供されなくなったため、必要に駆られてソングライティングの勉強を始める。 1966年、旧知の仲だった佐川満男のために「夢は夜ひらく」の歌詞を書いたが、紆余曲折を経て園まりが歌うことになり、これが大ヒットとなる。1968年、あらためて佐川に詞曲を書き下ろした「今は幸せかい」がヒット、その後「喝采」(ちあきなおみ)、「北酒場」(細川たかし)と作曲した曲が2度も日本レコード大賞に輝くなど、ヒットメーカーとしての地位を確立する。明るいキャラクターでテレビタレントとしても活躍した。 また、『スター誕生!』の審査員も務めていた。過去2回出場して不合格となっていた中森明菜が3度目の正直で出場したときに満点と評価し、反応の芳しくなかった阿久悠ほかの審査員を説き伏せて合格させたというエピソードも有名である。

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    11. 浅川マキ

      1942年石川県生まれ。歌手を目指して上京、ビクターからデビューするも不振に終わる。その時の宣伝担当だった寺本幸司がプロデューサーとなり、寺山修司と引き合わせて、1968年12月に新宿の地下劇場「蠍座(さそりざ)」で、寺山の演出で公演を行った。この公演は連夜満員となり、口コミで支持を拡大していく。1969年7月に「夜が明けたら/かもめ」で東芝から再デビュー。このシングルに収録されている「夜が明けたら」は蠍座でのライブ録音で、ジャケット撮影もまた蠍座で行われた。翌70年にはアルバム『浅川マキの世界』が発売、数年がかりで30万枚を売り上げるロングセラーとなった。<br> 以降も独自の世界観とポップ・センスに貫かれた作品をコンスタントに発表し、ライブやコンサートで歌い続けてきたが、2010年1月にライブのため滞在していた名古屋市のホテルで急性心不全のため客死した。

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    12. ザ・タイガース

      1966年に京都で「ザ・ファニーズ」として結成。大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」でローリング・ストーンズのナンバーなどを演奏して人気を博す。内田裕也のスカウトにより上京して渡辺プロダクションと契約、バンド名を「ザ・タイガース」と改めて1967年2月、「僕のマリー」でレコード・デビューを果たす。<br> ボーカル沢田研二の端正なルックスが10代の少女たちを中心に熱狂的な人気を獲得し、セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」が大ヒット、一躍グループサウンズブームの中心に躍り出る。1968年には日本人として初となる日本武道館でのコンサート、後楽園球場でのスタジアム・コンサートなどを成功させ、人気はピークを迎える。<br> しかし、その反面でアイドル的なプロモーション展開とメンバーの音楽的な志向が乖離していき、不満を募らせた加橋かつみが1969年3月に脱退。岸部一徳の弟である岸部シローを後任に迎えて活動を継続したが、加橋に続いて瞳みのるが脱退の意思を示したことや、グループサウンズのブームが終息に向かっていったこともあり、1971年の日本武道館でのコンサートを最後に解散した。

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    13. 西郷輝彦

      鹿児島から歌手を目指して高校を中退して単身上京、そこで新設されたばかりのクラウンレコードからスカウトされて1964年2月に「君だけを」でデビューする。この「君だけを」や、同年8月に発売された「十七才のこの胸に」がヒットとなり、この年のレコード大賞新人賞を受賞し、同じく新人賞を受賞していた橋幸夫、舟木一夫と並んで“御三家”と呼ばれた。<br> 翌65年に発売された「恋人ならば」でビート歌謡をいち早く取り入れ、、66年には旅行先のスペインで感銘を受けたフラメンコから生まれた「星のフラメンコ」を大ヒットさせた。

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    14. 舟木一夫

      高校2年生の時にCBC放送「歌のチャンピオン」に出場して優勝。そこからスカウトされて上京し、遠藤実に師事する。<br> 1963年6月に「高校三年生」でデビューすると、学生服を着て歌う姿が評判となって大ヒット、レコード大賞新人賞を受賞する。その後も「学園広場」「仲間たち」などの青春歌謡を歌い、先にデビューしていた橋幸夫、遅れてデビューした西郷輝彦とあわせて“御三家”と称された。<br> 60年代後半に入ると、叙情詩を歌い上げる“叙情歌謡”の第一人者としての活躍が顕著になり、「絶唱」「夕笛」などをヒットさせた。

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    15. 橋幸夫

      母親の勧めで中学生の頃から遠藤実に師事していたが、遠藤が専属していた日本コロムビアのオーディションを「年齢が若すぎる」という理由で落とされてしまう。そこで憤慨した遠藤がライバル会社であるビクターに頭を下げてオーディションを受けさせ合格、ビクターの専属作家の筆頭だった吉田正の門下に移って、1960年7月に「潮来笠」でデビューを果たした。<br> 「潮来笠」は120万枚の大ヒット、遅れてデビューした舟木一夫、西郷輝彦とともに“御三家”と称され、60年代の歌謡曲シーンを牽引した。「潮来笠」に代表される股旅物のほか、吉永小百合とデュエットした「いつでも夢を」のような青春歌謡。、リズム歌謡の「あの娘と僕」、ムード歌謡の「霧氷」、劇画のテーマソングである「子連れ狼」など、幅広いジャンルでヒット曲を送り出した。

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    1. ちあきなおみ

      芸能好きだった母親の影響で、幼いときからダンスや歌を習う。やがて米軍キャンプやジャズ喫茶を廻るようになり、日本コロムビアのオーディションを受けて1969年に「雨に濡れた慕情」でデビュー。翌年「四つのお願い」が大ヒットとなる、1973年には「喝采」では第14回日本レコード大賞を受賞。この頃から女優業でも活躍するようになり、歌番組での露出を減らしていく。1988年にテイチクに移籍。「赤とんぼ」「黄昏のビギン」などの名唱をリリースしたが、1992年に最愛の夫である郷鍈治を亡くして以来、一切の芸能活動を停止している。

    2. 辺見マリ

      京都府出身。中学3年の時に渡辺プロからスカウトされる。作曲家の浜口庫之助の下でレッスンを積み、1969年にデビュー。2枚目のシングル「経験」が大ヒットし、「私生活」「めまい」とヒットが続き、セクシー路線で人気を博す。1972年に歌手・俳優の西郷輝彦と結婚したが、後に離婚。彼との間の娘にタレントの辺見えみりがいる。

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    3. 藤圭子

      浪曲師の父と三味線奏者の母の間に生まれ、子供の頃から両親に従って旅回りの生活を送る。1968年、当時住んでいた岩見沢で行われた歌謡大会に出演、そこで「あざみの歌」「さくら貝の歌」などの作曲者である八洲秀章に見出され、歌手となるため上京する。その後、作詞家の石坂まさをと出会い、1969年9月に「新宿の女」でデビュー。同年11月に行った、25時間ぶっ通しで各所で歌うという「新宿25時間立体キャンペーン」が話題となり、瞬く間に人気に火が点く。1970年3月にリリースされたファーストアルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』はオリコン20週連続1位、7月にリリースされたセカンドアルバム『女のブルース』は17週連続1位、2枚で37週連続1位とチャートを席捲した。<br> 1971年、内山田洋とクールファイブのボーカル、前川清と結婚するがわずか2年で離婚。その後、自らのマネージャーだった宇多田照實と再婚、彼との間の娘が宇多田ヒカルである。

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    4. ベッツィ&クリス

      ハワイ出身のフォークソングデュオ。1969年に学生音楽団、サウンド・オブ・ヤング・ハワイのメンバーとして来日したメンバーのうち、ベッツィとクリスの二人がスカウトされ、結成した。デビューシングルの「白い色は恋人の色」がヒットした。それから約5年間にわたり活動を続けたのちに活動を休止した。

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    5. 加藤登紀子

      東京大学在学中にアマチュアシャンソンコンクールに優勝し、1966年にレコードデビュー。「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「愛のくらし」「百万本のバラ」など多くのヒット曲を送り出す。また、ソングライターとして「難破船」(中森明菜)、「わが人生に悔いなし」(石原裕次郎)を提供している。代表曲のひとつ、「さくらんぼの実る頃」が主題歌となった宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』ではヒロインの一人、マダム・ジーナ役で出演している。

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    6. 千賀かおる

      鹿児島・沖永良部島出身の歌手。デビュー曲の「真夜中のギター」で日本レコード大賞新人賞を受賞した。

    7. 新谷のり子

      北海道北斗市出身。子供の頃からNHKの児童合唱団で活躍。高校を中退して上京し、銀座のクラブなどで歌い始める。1969年、郷伍郎から提供された「フランシーヌの場合」で歌手デビュー、80万枚の大ヒットとなった。現在でも世界各地で反戦歌を歌い続けている。

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    8. 奥村チヨ

      高校在学中に歌ったCMソングがきっかけで、渡辺プロと東芝レコードによってスカウトされる。1965年にレコードデビュー。同年4枚目のシングル「ごめんネ…ジロー」が大ヒットする。さらに「北国の青い空」「恋の奴隷」「終着駅」などもヒット。コケティッシュかつキュートなスタイルとファッションは当時のファンを魅了した。90年代に入ってからもみうらじゅんがコンパイルしたコンピレーション・アルバム『コケティッシュ爆弾』がヒットしたことでリバイバルブームを巻き起こした。夫は作曲家の浜圭介。

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    9. 弘田三枝子

      1960年に「子供じゃないの」でデビュー。高い歌唱力で「子供じゃないの」「ヴァケーション」などのカヴァーポップスを次々とヒットさせる。1967年の「渚のうわさ」は作詞・橋本淳、作曲・筒美京平のコンビにとって初めてのヒット曲となった。1969年の「人形の家」では日本レコード大賞歌唱賞を受賞している。

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    10. 園まり

      児童合唱団で活動したのちに渡辺プロダクションに入社。1962年にレコードデビュー。同じ事務所の中尾ミエ、伊東ゆかりと共に“スパーク3人娘”と呼ばれた。 1964年、「何も云わないで」が大ヒット、「逢いたくて逢いたくて」「夢は夜ひらく」「愛は惜しみなく」も続き、ムード歌謡路線を確立した。

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    11. 森山良子

      父親はサンフランシスコ生まれの日系2世のジャズ・トランペッターで歌手でもあった森山久、母親は元ジャズシンガー、さらに叔父は日本ジャズ学校を設立したティーブ・釜萢、従兄弟にはムッシュかまやつという音楽一家に育つ。<br> 1967年「この広い野原いっぱい」でデビュー。60年代から70年代にかけて「今日の日はさようなら」「禁じられた恋」「美しい星」などをヒットさせ、近年に入っても「涙そうそう」「さとうきび畑」で活躍を続けている。元Petty Bookaの奈歩は長女、森山直太朗は長男である。

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    12. 由紀さおり

      小学生から高校生までひばり児童合唱団に所属し、本名である安田章子の名義で童謡歌手として活躍。<br> 1969年に由紀さおりと芸名を改め、「夜明けのスキャット」でデビュー。深夜ラジオで注目され、最終的に150万枚の大ヒットとなった。その後も「手紙」「ルーム・ライト(室内灯)」「恋文」など多くのヒット曲を歌っている。<br> 1982年に姉である安田祥子をコンサートのゲストに迎えたことがきっかけとなり始まった姉妹での童謡コンサートは、日本各地はもちろん、海外でも行われている。<br> 2011年、アメリカのジャズオーケストラPink Martiniとのコラボレーションアルバム「1969」をリリース。1969年にヒットした日本の歌謡曲と海外のポップスをカヴァーしたこのアルバムは50か国以上で発売、配信され、世界的なヒットとなった。 <br> また、『8時だョ!全員集合』『ドリフ大爆笑』『コメディーお江戸でござる』などのバラエティ番組におけるコメディエンヌとしての活躍も顕著である。

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    13. カルメン・マキ

      1968年3月、寺山修司が主宰する「演劇実験室 天井桟敷」の第6回公演『青ひげ』に感銘を受け、すぐに入団を決意する。同年8月の第7回公演「書を捨てよ、町へ出よう」で初舞台を踏む。そこで注目を集め、翌年CBSソニーから歌手デビューすることになる。<br> デビュー曲「時には母のない子のように」がいきなりミリオンセラーとなる。大ヒットを記念してCBSソニーからレコードプレーヤーと洋楽のLPを多数プレゼントされ、そこでジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスに触れて、ロックに開眼する。 1972年、ギタリストの春日博文らとカルメン・マキ&OZを結成。75年にリリースしたファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』は大ヒットとなった。OZは3枚のアルバムを残し、1977年に解散。<br> 以降、現在に至るまで多くのミュージシャンとコラボレーションし、精力的な活動を続けている。

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    14. 水原弘

      1957年、第2回日劇ウエスタン・カーニバルに出演し、井上ひろし、釜萢ヒロシ(かまやつひろし)と共に“三人ひろし”として人気を博す。1959年、自らも出演した映画『青春に賭けろ』の主題歌「黒い花びら」が大ヒットし、第1回日本レコード大賞に輝く。<br> その後、飲酒とギャンブルで身を持ち崩し、不遇の日々を送るが、1967年に「君こそわが命」が大ヒットし“奇跡のカムバック”と呼ばれた。<br> しかし1978年、大量の飲酒がもとで肝硬変を発症、42歳の若さでこの世を去った。

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    15. 和田アキ子

      1968年、“和製R&Bの女王”のキャッチコピーでデビュー。翌年「どしゃぶりの雨の中で」がヒット。以降、そのパワフルな歌唱力で「笑って許して」「天使になれない」「あの鐘を鳴らすのはあなた」「古い日記」「だってしょうがないじゃない」などのヒットを放つ。芸能界の“ゴッド姉ちゃん”の異名で知られ、『アッコにおまかせ』『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』といったテレビ、ラジオの冠番組を中心にタレント、女優としても長年にわたって活躍している。

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    16. 安井かずみ

      学生時代、趣味であるピアノの譜面を買うために入った新興楽譜出版社で、たまたま専務の草野昌一らが訳詞を行っている現場に遭遇し、そこで意見を述べたところ、気に入られて「みナみかズみ」という名前で訳詞のアルバイトを行うようになり、「ヘイ・ポーラ」(田辺靖雄と梓みちよ)などのヒットを生む。<br> やがて若い女性ならではのセンスに注目したのが渡辺プロダクションの渡邊美佐から依頼を受け、「安井かずみ」の名前で作詞を始める。<br> 作詞家としては「おしゃべりな真珠」(伊東ゆかり)、「シー・シー・シー」(ザ・タイガース)、「わたしの城下町」(小柳ルミ子)、「草原の輝き」(アグネス・チャン)などがヒットした。<br> 1977年に加藤和彦と結婚。お互い再婚同士だったが、おしどり夫婦として有名になり、その優雅な生活ぶりは1980年代の理想の夫婦像として雑誌や広告を飾った。

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    17. 漣さざなみ健児

      シンコーミュージックの専務で雑誌『ミュージック・ライフ』の編集長だった草野浩一のペンネーム。<br> 坂本九の「ステキなタイミング」に始まり、飯田久彦「ルイジアナ・ママ」、中尾ミエ「可愛いベビー」、弘田三枝子「子供じゃないの」「ヴァケーション」など海外のポップスの訳詞を多数手がけ、カヴァー・ポップスの一時代を築いた。

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    18. 越路吹雪

      宝塚歌劇団花組の男役トップスターとして活躍。退団後は東宝に所属し、歌手・女優の双方で日本を代表する大スターとなる。<br> マネージャーである岩谷時子の訳詞でシャンソンの名曲を数多く歌って日本に紹介し、“シャンソンの女王”とも呼ばれた。

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    19. エンリコ・マシアス

      1938年アルジェリア生まれのシャンソン歌手。アルジェリア独立戦争の余波を受けて1961年に宗主国であるフランスに移り、歌手活動を始めた。 ギターのみならず民族楽器であるウードでも弾き語りを行い、“ピエ・ノワール”と呼ばれる北アフリカからの帰還民から絶大な支持を受け、やがて全国的な人気を博すようになった。

    20. 森山加代子

      北海道函館市出身の歌手。札幌のジャズ喫茶で歌っていたところをスカウトされて上京し、1960年にリリースしたデビュー曲「月影のナポリ」がいきなりの大ヒットとなった。その後も「メロンの気持」「月影のキューバ」「じんじろげ」などをヒットさせた。同じマナセプロダクション所属の坂本九とは映画やテレビ番組などで数多く共演している。

      http://mca-proto.voyager.co.jp/artist/%e6%a3%ae%e5%b1%b1%e5%8a%a0%e4%bb%a3%e5%ad%90

    21. ザ・モップス

      1966年に結成されたグループサウンズ・バンド。日本にいち早くサイケデリック・サウンドを導入した。GSブームが終息してからも活動を続け、1971年に「月光仮面」、1972年には「たどりついたらいつも雨ふり」をヒットさせた。1973年に解散。その後のメンバーからは、鈴木ヒロミツはタレント、星勝は編曲家、スズキ幹治はプロデューサーとして活躍した。

      http://mca-proto.voyager.co.jp/artist/%e3%83%a2%e3%83%83%e3%83%97%e3%82%b9